移住25年目の建築デザイナー標高1,000メートルのアトリエを訪ねて。八ヶ岳スタイル25号
八ヶ岳スタイル25号 一級建築士事務所「アトリエ・プラス・ゼロ」 春日裕昭・ 静子様ご夫妻
25年前、40歳で八ヶ岳に移住し、今でも現役として設計事務所を営む春日さんご夫婦。奥様の強い願いと、八ヶ岳の助けがあって、「何とかなる」を可能に。
えっ! どうやって食っていくの?から始まった、移住計画。
今から25年前、平成元年に奥様の希望で高尾から八ヶ岳に移住した春日さんご夫妻。
「本当は北海道で暮らしたかったんです。広々としたところに。それが、ここ、八ヶ岳でも実現できそうだったので。東京にも近いし、まだ現役で仕事を続けるにはちょうどいいかなと。」
当時ご主人は40歳、奥様は38歳。仕事も忙しく、幼稚園児だった長男の子育ての真っ最中であったにも関わらず、思い切った決断に踏み切った。
「そりゃあね、どうやって食ってくの? というのが一番でしたよ。地縁血縁は一切ないし、ホントにこんなところに来て仕事あるの?仕事できるの?って。高尾だって駅から40分くらい歩いたところだったので、充分広々として自然も豊かだったんだけどね。」 とご主人よりも奥様の方が積極的に移住を希望した。
「まだ子供も小さいうちに移住した方がいいと思って。小学校に上がって友達もできたりすると難しくなるかなっていう思いもありましたから。」
「小学校に上る前の年の11月に越したので、うちの息子は幼稚園中退なんですよ(笑)。」
ご主人は吉祥寺で生まれ育ち、大学で建築を学んで設計事務所を設立。奥さまは東京下町生まれで世田谷、調布と移り住み、結婚後高尾に居を構えた。少しづつ西へと移動してきたが、最後は一気に八ヶ岳へと大きく移動した。
「最初は本当に仕事があるのかっていう不安はありました。でも、設計した家やギャラリーを実際に見て、相談に来て下さる方が多くて。考えていたほど影響はなかったですね」
春日さんの仕事は個人住宅はもちろん、別荘、店舗、ギャラリーなどの仕事も多い。しかも秋田県や静岡県など、とても広い範囲にわたって仕事を行ってきたということもあり、アトリエのある場所に縛られることはあまりなかった。
「逆にここに来てから、純粋に設計という仕事に向き合うことができたような気がしますね。いい仕事ができるようになったのかな。」
個人住宅の設計というと、設計料が高くなる、過剰なデザインになりすぎる、どうも敷居が高い、というイメージがまだあるのが現実だが、わざわざ八ヶ岳の設計事務所に依頼に来るクライアントはこだわりのある方が多いので、その分設計に力を注ぐことができたという。
トータルに「うつわ」としての空間をどう作るか。
「今でも、高いって誤解するようなイメージがあるようですけど、どうやって金銭面の負担を少なく良い家を建てるか、ということを真剣に考えるのも私たちの大事な役目です。安くて良い材料をとことん探してきて使う。仕入れを工夫する。時にはそれが一般的でない場合もありますが、結果的にそれがいい空間になって、建築コストも抑えられればいいわけでしょう。全体の構成や色使いも含めて、素敵な雰囲気の空間を作りあげるのが私達の仕事だと思っています。建築主さんには捉えにくい、見えにくいところを表現する、そんな提案をするようにしています。」
特に八ヶ岳、信州地方からの設計の依頼では、自分たちがここに暮らしているからこそ分かる、自然との付き合い方の提案が設計に反映される。太陽の動き。気温の変化。外と内の繋ぎの空間の必要性。そしてもっとも重要なのがその人の暮らし方に合った設計をどうカタチにするか。そこは徹底的にお話しを聞き、話し合い、具現化する時間を大切にする。
「そうやるしかないんですね。話し合うことで建築主さんも自分のイメージを確認するわけですよ。だから絵も描くし模型も作る。何度も描き直す。そんなプロセスを大事にしないと、いい家は中々できないですから。」
そのための場所として、現在のアトリエ「アーキサイト」を清里の地に建てた。
「1997年に『えほんミュージアム清里』の設計のお話しをいただいて、その完成の翌年に、同じ敷地内に土地を借り、小さなアトリエを建て、ここで仕事をしています。ミュージアムと調和したデザイン、同じ素材を活かしています。周囲は、夏は百花繚乱、山野草の色とりどりの花が庭いっぱいに咲き、冬はモノトーンの静寂に包まれる世界。だから、すべての色を含んだ黒を基調にしたグレーをテーマカラーにしました。」色味一つであっても、八ヶ岳での暮らしが気づかせてくれる自然の営みや変化が、貴重なヒントを与えてくれるという。また、奥様がテキスタイルや染色が専門ということもあり、設計による建築空間と伝統的な工芸の融合を工夫した仕事ぶりが多い。それも、空間作りという設計の仕事に集中できるメリットなのかもしれない。